- 白井英(しらい すぐる)氏の経歴
- 1995年~2001年 大学(院)時代
- 東北大学にて宇宙地球物理学科を専攻し、C言語のプログラミングを経験
- 2001年~2007年 SIer時代
- 業務系Webシステムのアプリエンジニアとして従事しつつも、インフラのプロジェクトにも関わる
- 2007年~2009年 ベンチャー時代
- アプリ開発だけでなく、エンジニアのマネージメントも担当
- 2009年~2014年 サイバーエージェントゲーム系子会社時代
- 子会社間を横断的に動き、全体のサポートを行う
- 2014年~2016年現在
- 子会社9社を取りまとめるCTOに就任。子会社間でのノウハウ共有促進などのマネージメント業務を主に行う
インタビューを通して、注目企業のCTOへキャリアや仕事の哲学に迫る「CTOの職務経歴書」。今回は、株式会社サイバーエージェント SGE統括本部 CTO 白井英氏に登場いただいた。白井氏はサイバーエージェントのゲーム事業に携わる子会社9社を束ねる事業部のCTOを務めている。本記事では、今のポジションに至るまでの道のりや現在の事業に対する思いなどを語ってもらった。
SGEとは
株式会社サイバーエージェントのゲーム事業に携わる子会社9社を指す、「Smartphone Games Entertainment By CyberAgent」の略称。AppStoreトップセールスランキング上位にランクインするタイトルを多数提供するなどスマートフォン向けゲームでヒット作品を生み出している。
1. 学問の目的は「世の中の真理に触れること」
―学生時代はどのようなことを学ばれたのですか?
太陽系の中で起こっていることを研究する宇宙地球物理学科を専攻し、修士課程まで学んでいました。たとえば、オーロラが発生する前の段階で太陽/地球で起こる現象などが研究対象でした。
宇宙地球物理学科を選んだ理由は、地球のまわりや宇宙そのものに興味があったというのが一つにあります。ただ、大本の学問の目的は、別のところにあるとも思っていました。学問は、世の中の真理を知りたいという欲求を満たすものだと。そして大学で勉強をする中でその一端に触れられたらといいなと思っていたので、実際はどんなジャンルでもよかったともいえます。
―プログラミングを学ばれたのはいつからでしょうか?
幼稚園のころ、BASICに触れたのが最初ですね。当時、自宅にはパソコンではなくマイコンがありまして、それを父が使わせてくれたんです。とはいえ、幼かったので自分で考えるというよりも、本を見て写すというレベルでした。「とりあえずRUNと入力するとプラグラムが走る」くらいの理解でやっていましたね。
きちんとプログラミングに触れたのは大学からで、研究室で主流だったC言語を扱っていました。地球の周りを研究するにあたって、「現象を数式で表して、それに該当するものをデータから探す」といった形で、人工衛星のデータを解析するのに使っていました。
当時はFortranかCしか言語の選択肢がなく、大学における科学技術のプログラミングはFortranが主流だったという
初めはいきなりプログラムを渡されて「それを使ってやってね」と言われて、誰かが教えてくれることもなかったので苦労しましたね。わからないことは人に聞いたり、分厚いC言語の本を買ったりしてキャッチアップを図ってました。本は全部読んだわけではなかったのですが(笑)。 ただし、経験を積んでいく中でプログラミングにも慣れていきましたし、就職活動をするときには「プログラミングは自分に向いている」と思うようになり、就職活動する際はエンジニアとして進める会社を選んでいました。
―なるほど。就職活動では、他にどのような基準で企業を選んでいたのでしょうか
大学が仙台だったので仙台で就職したいと思っていました。さらに当時は安定志向だったので、大企業に惹かれていたんです。結果として「エンジニア」「仙台」「大企業」を基準に、就職活動を進めていった結果、仙台の大手SIerへ入社いたしました。
2. 社会人としての基礎、インフラのスキルなど多くを学んだSIer時代
―新卒で入社されたSIerでのご経験を聞かせてもらえますか。
自分が担当していたのは、業務系のWebシステム開発が多かったです。たとえば大学の履修システム開発ですね。そこで自分はアプリエンジニアとして配属されていたんですが、あるときインフラのプロジェクトに投入されインフラの仕事をすることがありました。そこでインフラの基礎的なことを教わり、自分からも調べるようになり、インフラのスキルが身についたことは大きかったですね。
あとは、初の社会人経験でしたので、仕事のやり方の基本を色々と学んだというところでしょうか。
―1社目を離れるようになった経緯はどのようなものですか?
転職を考えた要因がいくつかありまして。一つには、新しいことに挑戦したくなったということが挙げられます。1社目には2001年から2007年までの約7年間勤務したのですが、途中で10年後の自分を考えてみたことがありました。そして、良くも悪くもその会社で同じことを続けているだろうなと感じてしまったんです。
もう一つは、大きな企業の中の一員でしたので、組織の力と自分の力との違いがよくわからなかったというのもあります。「自分は井の中の蛙なんじゃないか」と感じてから、自分のスキルを確かめてみたくなりました。
―そのように思い立ってから、どのようにして2社目へ?
実は転職を考えてから入社するまでに、2年ほどかかっていまして。「この会社だったら働きたい」という強い思いがないと転職するのは難しいだろうと考えて、じっくり会社を選んでいました。
そのころ注目したのが、携帯のキャンペーンサイトなどの携帯コンテンツの受託開発を行っていた、仙台のベンチャー企業でした。ですが、興味を持ちはしたものの、すぐに応募したりはせずにしばらく見守っていました。ベンチャー企業なので、すぐに潰れてしまうんじゃないかと思っていたんです(笑)。また自分自身にも、転職したいという欲求に波がありましたので、そのときはチェックするだけで満足してしまいました。そこから再び転職したいと思い始めたときに、その会社のWebサイトを見ると依然として同じ事業で成長していたんです。ちょうど人も募集していましたので、応募したところ、採用されました。
―2社目のベンチャーに強く関心を持ったのはなぜですか?
社長が語っていた夢に賛同したからです。彼は地方を盛り上げるため、地方で会社を作って、地方で成果を上げましょうという趣旨のメッセージを発していました。自分も仙台で大きな成果を出したいと考えていたので、興味を持ちました。
また仕事として考えた際も、自分が勝負できそうな分野で事業をやっている会社を選んだというのもあります。入社した2008年ごろはiモードブームが終わったあとに、携帯コンテンツ事業がもうひと盛り上がり見せ始めたタイミングでした。携帯コンテンツの業界は歴史が浅いため勝負ができそうだと考えました。
2社目に入社するまではPHSを使っていて、iモードは触ったことがなかったという白井氏
―そこではどういったお仕事をなさっていたのですか?
基本的には1社目同様にアプリエンジニアという立ち位置でした。途中からエンジニアを束ねるようなマネージメント業務も多くなりましたね。自分が入社したころにエンジニアを束ねていた方が会社の運営側に回ってしまい、その役割を自分が引き継ぐことになりました。
―2社目で得られたことの中で、もっとも大きなものはなんですか?
できないと思うことでも、期待に応えるために最大限努力すればできるということがわかったことです。
ベンチャーでしたので体力があるわけではなく、営業が仕事を取ってくる際にもクライアントのさまざまな要望に応える必要がありました。営業が「何でもできます!」「面白いことやります!」とクライアントに伝えて取ってきた仕事に対して、エンジニアが応えられないと会社が潰れてしまうおそれがあったわけです。そのため、常に背水の陣の感覚でがんばっていましたし、難しいと思うようなことでも「できる」方法だけを考えるように思考転換したら案外なんとかなってしまうということに気付けました。
3. 会社の専務に転職先を紹介されてサイバーエージェントゲーム系子会社へ入社
―精力的に働かれていた2社目を離れることになったのは、どういう理由からでしょうか?
2社目に約2年間勤めたころ、その会社でやることを一通りやりきった感があり、新しいことに挑戦したいという思いが湧いてきました。また、1社目2社目ともに仙台で働いていたので、世の中の中心である東京で働くと、どういう違いがあるのかにも興味が出てきたころでもありました。
折しも会社の業績不振から、会社を縮小しようというタイミングでもあり、エンジニアも何人か会社を離れることになりました。
そのとき、2社目の専務が、東京の知り合いに声をかけてくださったんです。「仙台に優秀なエンジニアがいるから、よかったら顔合わせをしないか」と。その結果、退職予定の自分たち数人のために、数社がわざわざ仙台まで来てくださり、説明会を開いてくださいました。その中でサイバーエージェントの子会社がモバイルゲームを始めようとエンジニアを募集していたので、これまでの経験が役立てられると思い入社しました。
―どのようなお仕事をされていたんですか?
自分が入社した2010年初頭のころは、モバイルゲームの立ち上げ真っ只中のタイミングでしたので、その開発がメインでした。当時、サイバーエージェントグループのうち、モバイルゲーム開発に関わっていたのはサムザップ、アプリボットなど数社でした。ワンフロアで働いていたので、横断して各社の仕事にも関わり、開発・運用についてのアドバイスやサポートなどをしていました。
―その中で印象的なエピソードなどはありますか?
初期にリリースしたタイトルのインフラ設計・構築を私が担当したのですが、そのとき、MySQLのデュアルマスター構成にしました。無停止で落とさない運用ができる構成にしようと思っていたからこその選択です。
ところが、逆にデュアルマスター構成だからこその、「更新の衝突」のトラブルが起きデータ不整合を起こしてしまい、データ復旧するために対応する、という失敗をしてしまいました。この手痛い失敗経験は、その後の「最初に全力を出す」という考えの元になっています。このタイトル自体は、予想以上のヒットをしてくれたので、毎日サーバ増設移行したりして、メンバーみんなで必死で対応していたのもいい思い出です。