ティム・バーナーズ=リー
WWWの仕組みを発明したWebの神様
イギリスのコンピューター技術者で、World Wide Web(WWW)システムの考案者。1955年ロンドンで産まれ、オックスフォード大学クイーンカレッジでは、物理学を専攻していた。在学中にコンピューターにはまり、マイクロプロセッサーや中古テレビなどを使って、コンピューターを自作していたという。大学のコンピューターにハッキングして、使用禁止にされたという逸話も残っている。
卒業後はイギリスの通信会社に就職し、分散トランザクションシステムやバーコード、メッセージ転送などの技術を担当。その後、D.G.ナッシュ社へと移籍し、インテリジェントプリンタ用のソフトやマルチタスクOSの開発などを手がけていた。
80年には独立し、コンサルタントとしてスイスにある欧州原子核研究機構(CERN)と契約。さらに、84年までイメージコンピューターシステムズ社で技術デザインの責任者を務めた後、CERNへと戻り、89年にはグローバルハイパーテキストプロジェクトを提案した。
90年になると、それを具体化した提案書「WorldWideWeb: Proposal for a HyperText Project」を提出し、同年末にはUNIX互換のOS、「NeXTSTEP」上で世界初のWebサーバー環境とウェブブラウザ、エディタを構築。WWWシステムを誕生させた。まさにWebの仕組みを作った伝説のエンジニアだと言えるだろう。
スティーブ・ウォズニアック
「ウォズの魔法使い」と呼ばれたもう1人のアップル創業者
アップルの共同創業者。温厚で気さくな性格で知られ、ウォズの愛称で親しまれる。1950年、カリフォルニア州で生まれ、父はエンジニア。中学生の頃には頭角を表し、科学コンクールで入賞していたという。
カリフォルニア大学在学中には、ジョン・ドレイパーが開発したタダで電話できる装置「ブルーボックス」をスティーブ・ジョブズとともに改造し、学内で荒稼ぎ。それを使い、悪戯でローマ法王に電話をしたこともあったという。
その後、大学を中退し、HP社にエンジニアとして就職。電卓の開発などに携わりながら、当時ジョブズが働いていたアタリ社のビデオゲーム機の開発を請け負い、使用するICチップの数を大幅に削減してみせたこともあった。
その後、ジョブズと自家製コンピューターを作るエンジニアの集いに参加し、「Apple I」を開発。HP社を退社したウォズは、カラー表示が可能な「AppleⅡ」の開発も手がけ、77年に「Apple II」を発売すると、爆発的ヒットになる。
81年には自家用飛行機を運転中に事故を起こし、健忘症に。約2年の休養を経てアップルに復職し、「Apple IIx」の開発を始めるも、「Macintosh」を売りたいジョブズの冷遇を受けて退社したという。
以降は一線を退き、教育活動に従事しているが、アップル創業者として未だ大きな影響力を持ち、アップルのファンであることを公言している。新型iPhone発売日、列に嬉しそうな顔で並ぶ彼の姿を、テレビなどで見た人も多いことだろう。
下村 努(しもむら つとむ)
史上最悪のクラッカーを捕まえた日本人ハッカー
全米史上最悪のクラッカーと言われたケビン・ミトニックを逮捕へと追い込んだコンピューターセキュリティーの専門家であり、物理学者。1964年、愛知県名古屋市で生まれ、父親は2008年にノーベル化学賞を受賞した生物学者、下村修氏だと知られている。
小学4年生の頃にはコンピューターを与えられ、プログラミングの虜に。飛び級を重ね、数年早く高校へ進学すると、父親が籍を置くプリンストン大学の天文学部にアルバイトで雇われ、計算を担当していたという。その後、カリフォルニア工科大学に進んで物理学を専攻していたが、2年で中退。ロスアラモス国立研究所へと移り、ハッカー対策専門のプログラミング研究に従事していた。
1995年頃、全米中のコンピューターから約2万件のクレジットカード情報を盗み出した罪などに問われていた凶悪ハッカー、ケビン・ミトニックに、ネットワーク経由で自宅コンピューターの情報を盗まれてしまう。
当時、下村氏は政府が運営するサンディエゴ・スーパーコンピューター・センターで研究員を務めていたが、捜査に協力。盗まれたファイルがバーチャルコミュニティ「WELL」上に隠されていることを知り、監視を続けるうちに犯人がケビン・ミトニックだと確信すると、電話会社の通話記録などからミトニックの居所を少しずつ突き止めていき、逮捕へとつなげた。
下村氏とケビン・ミトニックの攻防は後に「Takedown」という小説にまとめられ、「ザ・ハッカー」というタイトルでハリウッド映画にもなった。
リーナス・トーバルズ
在学中にLINUXを開発したフィンランド出身の鬼才
LINUXを開発したフィンランド・ヘルシンキ出身のプログラマー。1969年生まれで、父親はジャーナリスト。祖父からアメリカ・コモドール社のVIC120をもらったことがきっかけで、パソコンに興味を抱くようになった。
88年、ヘルシンキ大学に入学するとコンピューター科学を専攻し、在学中にはパソコンを買ってゲームなどで遊ぶいっぽう、エディタやアセンブラを書いたり、ハードの改造も行っていたという。そして90年には、UNIXとC言語を学び、UNIXベースのOS自作に乗り出した。
その頃、オランダのコンピューター科学者、アンドリュー・S・タネンバウムが著した「オペレーティングシステム‐設計と理論およびMINIXによる実装」を読み、タネンバウムが開発したカーネルとUNIX OSの一種、MINIXに大きな感銘を受けたと言われている。そして自作のOSをMINIXに置き換え、LINUX(Linus’s Minix)を開発した。
91年には、Linux 0.02として一般公開。イギリスのプログラマー、アラン・コックスを始め、さまざまなエンジニアに改良を加えられ、「Linux」はインターネットサーバーを始め、携帯電話、デジタル家電など組込み機器のOSとしても、広く普及をしていった。
リチャード・ストールマン
ソフトウェアの自由のために闘う活動家
数々のフリーソフト開発を手がけたアメリカのプログラマーであり、フリーソフトウェア活動家として知られている。1953年、ニューヨークに生まれ、ハーバード大学では物理学を学ぶ。ストールマンは同大学の「ソース未公開のプログラムを、システムに組み込まない」という方針に、深くを動かされたという。
さらに在学中、マサチューセッツ工科大学(MIT)のAI研究所のプログラマーになり、ハーバード大学を卒業後は、AI研究所の研究員を続けながらMITの大学院に進学。そこで、フリーソフトウェアへの思いを強くするとともに、フリーテキストエディタ「Emacs」やLISPマシンの開発に携わった。
84年になると、AI研究所を退所してフリーソフトウェア活動「GNUプロジェクト」を立ち上げ。続く85年には、その母体となる非営利団体「Free Software Foundation(FSF)」を設立。ユーザーが自由に実行、共有、修正できる権利に基づいた数々のソフトウェアを開発、提供するとともに、コピーレフトの概念やフリーソフトウェアのライセンス「GPL」などを編み出した。
2001年 、先に紹介したLINUX開発者リーナス・トーバルズらとともに武田賞を受賞。現在も、ソフトウェアの自由を守るために、FSF総裁として活動を続けている。
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