「CTOの職務経歴書」はレバレジーズのアナリスト兼営業が、インタビュー取材を通して注目企業CTOの視野に迫る連続企画です。
こんにちは。
今回の『CTOの職務経歴書』は、わたくしレバテック営業の木下がお送りします。
第4回目のCTOは・・・
株式会社マナボの山下大介氏(@dddaisuke)!!
「プログラミングに出会ってから起業まで」の前半と「クックパッド参画から現在まで」の後半と、2つの記事に分けてお送りします。
『株式会社マナボ』とは・・スマートフォン・タブレット・PC端末を利用した音声や手書き文字、写真の共有システムによって、受験生がわからない問題を現役の大学生、大学院生に質問できるオンライン学習用のプラットフォーム『mana.bo』を運営している。2012年に法人登録し、今注目のスタートアップ。
山下氏は23歳で起業、経営に携わった後、30歳の時にクックパッドに参画。現在はスタートアップのベンチャー企業のCTOを務められています。
Google公認APIエキスパートの資格をもつなど、幅広い活躍されている山下氏の経歴書をインタビューさせていただきました!
1. プログラムとの出逢いのきっかけは「近所のお兄ちゃん」
―パソコンと出会ったきっかけは何だったのでしょうか?
1番最初のきっかけは、家の近所のお兄ちゃんがパソコンを買ってもらって僕に触らせてくれたことです。まだWindowsが3.0の時代で、日本ではMS-DOSでコマンドで入力している時代でした。
最初はずっとゲーム機だと思っていたんですが、しばらくして世間がWindowsを触るようになって初めてコンピューターだと認識したんです。当時はまだ10歳、11歳くらいでした。
―10歳くらいにはもうパソコンを触っていたんですか・・・!? では、プログラミングを始めたのはいつでしたか?
のきっかけも彼がプログラミングの勉強に飽きて本を貸してくれたからです。
「これを勉強すればゲームがつくれるようになる!」と思ってやりだしました。 最初はキーボードの入力を受け付けるちょっとしたツールみたいなものを作りましたね。
―全部お兄さんがきっかけだったんですね。
そうですね。家が100メートルくらいしか離れてなかったので足繁く通ってました。
通っているうちに自分のパソコンが欲しくなって、中学に入るときに生まれて初めて、僕が親にパソコンをねだったんです。
今まで物を真剣にねだるような子供じゃなかったらしく、親からすると衝撃だったらしいんですよ。
値段が張るものだから悩んだそうですが、結局「勉強のため」ということで買い与えてくれました。
だから中学に入ってから自分のパソコンを触るようになったんです。
―中学生の頃には、もうコードを?
いえ、高校生になってからです。それもお兄ちゃんの影響でした。
お兄ちゃんがIT企業に就職していたんです。彼にバイトに誘ってもらったのがきっかけですね。
でも、最初の業務は掃除とかそんなレベルのことだったと思います(笑)
掃除から入って、ワープロで書かれた仕様書をExcelにまとめ直す仕事が最初でした。
そして、そのうち仕様書の画面遷移をプログラミングして、次第に銀行の顧客管理システムを構築するまでになりました。
―アルバイト先はどんな雰囲気でしたか?
変な人ばっかりでした。一番驚いたのは仕事中なのに堂々とパチンコや麻雀に行く人がいたんです。
当時社員5人しかおらず、コンビニの2階でやってるような規模の時にですよ。誰がいるか見渡せばわかるような状況で、堂々と向かいのパチンコ屋に入っていく姿を何度も目撃しました。
―仕事中でも??
あまりにも通っているので「そんなに遊んで大丈夫ですか?」と聞いたことがありました。
そしたら「俺は麻雀はプログラマーとしか卓を囲まないんだ」と熱く語られたんですが、それって仕事をせずに麻雀をする理由には一切なってない(笑)しかもパチンコについては説明もなくて。
―面白い方ですね。(笑) その方はどんなエンジニアさんだったのですか?
特に技術がすごかったです。彼に追いつけるイメージが全く沸かなかった。
そもそも会社自体が優秀な技術者集団でした。下請けの会社のはずが、他の会社の仕事も受けて、他社で炎上したプロジェクトが持ち込まれてました。
大炎上してるけどこの会社に任せればなんとかなる、と思われているような会社でした。
その人もパチンコばっかり行って遊んでるかと思いきや、雑誌で技術の記事も書いてて。僕には雑誌で記事を書くことなんて想像も出来なかったので、めちゃくちゃ凄い人だと感じました。
実際、今でも記事を書くことの大変さを体験したので、「よく遊びに行けたな」と思っています。
2. 音楽をやっていくよりエンジニアになるの方が活躍できる
―高校時代は将来パソコンを使った職業につこうと思っていたんですか?
いや、あまり考えていませんでしたね。
パソコンでお金を稼ぐことができるという認識をしていなくて。
高校時代の僕は音楽に興味があったんです。
坂本龍一や小室哲哉の全盛期だったのでパソコンを使ったコンピューターミュージックをしたいと思ってました。
だから、ピアノで音大に行くか、工学部に行くか真剣に悩んでたんです。
そしたら高校生のうちに『情報処理技術者試験』の第一種に受かったんです。
難関だと世間では認識されている試験に合格したことでコンピューターの世界では自分が割と上位にいるんだと気付きました。
僕がピアノを始めたのは小学校の時だったので、もっと幼い頃からやってる子にはどうしても勝てなかった。
だからコンピューターを選んだんです。今上位に位置しているのなら、これからもっと上を目指せるだろう、と思って。
大学選びに悩んだ結果、工学部卒の先生の勧めで同志社大学に進学しました。
ですが、自分の好きな研究ができるようになるには時間がかかり、受けていた授業内容が自分の知っていることばかりだったので大学とは疎遠になってしまいました。
3. 大学を辞めて、いきなり企業の取締役に!
―大学の授業以外の時間はどういうことを考えていたのですか?
何か事業をしたいなと思っていて。
でも学生だからどこにお客さんがいるのか、どう営業したらいいのかもわからないことだらけで悶々と過ごしていました。
―その時から起業したいと思ってたんですか?
母親は若いころに起業してエステの会社を経営していたんです。「経営者は辛いこともいっぱいあるけどそれ以上に裁量権もあって面白い」と吹きこまれて育ったからだと思います。/p>
それで偶然って訳ではないんですが、京都大学を中心に文部科学省やオムロンなどが参入した研究プロジェクトに一般公募があったんです。
開発したP2P配信によるVoIP技術を商業化するプロジェクトでした。プロジェクトが法人化することを目標にしていたし、私も起業の前に大企業のビジネスの仕方も勉強できるかと思って参画を決めました。
―その時はまだ学生?
最初は学生でしたが、大学を辞めるつもりで職を探していたので見つかったら辞めましたね。
周りの大人にはかなり反対されましたが、大学に未練がなかったので、思い切って辞めました。
―大企業のビジネスは実際体験してみてどうでしたか?
入ってみると、大企業の資本が入っただけで実際にその企業に勤めた人間ではないので、大企業のビジネスは直接学べませんでした。
ただやっぱりオムロンの資本が入っているだけでオムロングループとして対外的に見る人が多くて、他のベンチャーより信頼が得られましたね。
―当時はまだ23歳だと思うんですけど、大企業とのやりとりにプレッシャーは感じませんでしたか?
プレッシャーを感じてやりにくいというのはありませんでしたが、単価交渉には苦労しましたね。
大企業とのビジネスは単価も高いのでこちらも受注したいのだけど、お互いに納得できるところがどこなのか、駆け引きをしていました。
他の代表や役員と相談しながら決めてました。
―最終的にSOBAプロジェクトは?
2011年の末に株式を売却しました。
自分が30歳になった時でしたし、そのタイミングに役員間のトラブルとかもあったんです。
僕は当時20代だったので会社を大きくすることに興味があったんですが、そうでない人も役員の中にはいたんですよね。
年齢が離れていたためか、会社が回っていると安定志向に入る人もいて、結構もめていたのです。
それで会社を売って次の事業の案を考えながらプログラム書いて過ごしました。
山下氏がパソコンにハマってから起業、そして売却までのお話はいかがでしたか?
生まれてから本気でねだったものがパソコンなんて、いかにパソコンに熱中していたかがよくわかるエピソードでしたね。
変わった職場のエンジニアさんと一緒に仕事をしたり、プログラミングだけでなく起業や経営にも挑戦し続ける山下氏のお話を聞くと、もっと自分も挑戦しなきゃ、と刺激をもらいます。
次回は山下氏がクックパッドに入社してからとこれからについてのお話をお送りします。楽しみにしていてください!
後編を読む【CTOの職務経歴書】世の中の人が正しく評価される世界を僕の手で作っていきたい|マナボ CTO 山下大介氏 [後編]